暮らしのひとふし

自伝的自己紹介

高校生、大学生時代

1990年代

ルーズソックスと厚底ブーツ、細眉が大流行した時代の高校生。
渋谷にはチーマーとギャルがいて、クラブにいくのがかっこいいとされていた頃。

当時はソニープラザが輸入の文房具が珍しく大流行。
缶のコカコーラが一本100円だったものが、プルトップの110円に値上がって
1本500円のシャープペンシルを持っていることがかっこいいとされていました。

私のお買い物好きは、そんな学生の頃から始まった気がします。
大学生の頃には個人でホームページを持つことやブログが流行り、
GREE、MIXIが流行り、
海外の友人から同じようなサービスと言うFACEBOOKを教えてもらいました。

バイト代は大体洋服で消え、みんなブランドのバッグを持って大学へ行く。
ブランド物のバッグは小さいので荷物が入らないので、
ブランドの紙袋をサブバッグとして持つ。
流行っていたブランドは、プラダとヴィトン。

私は初めてのバイト代でヴィトン・エピの黄色い折り財布を買いました。
大学には、巾着の形のヴィトンのバッグに、御多分にもれず紙袋をサブバッグに。
今思えば不思議な文化ですが、当時は素敵なバッグがなかったんです。

暇な大学生時代。
コスメオタクだったことと、当時「ホームページを作る」ことが流行り始めた時代で、
私も無料のHP作成コンテンツサービスを使ってコスメサイトを開設。

無料のサービスで掲示板、コスメレビューなどをしていき、オフ会などを開催するのが趣味でした。
次第にコスメへの熱意が薄れ、このコスメサイトにコスメ絡みの日記を書き始めるように。
コスメサイトに飽きた後も、引き続きフェイスブックやmixiに引き続きハマり、日記を書き続けました。

コスメサイトは放置している間に無料サービスが終了し、サイトがいつの間にか消滅。

この「青春時代に作ったコスメサイト」というコンテンツが消滅したことが、おいおい、じわじわとショックで喪失感につながりました。今思えばこれがブログ作成のきっかけです。

社会人時代

国語科の教育実習をしたものの、先生の職もないうえに、超・就職氷河期。

大学を卒業して、ひとまず実家の手伝いをすることにしました。

輸入元の自営業の父親のアシスタントとして貿易事務をスタートします。

2002年4月 24歳

社会人3年目に突入。海外の展示会に同行したフィリピン マニラで行われるトレードショーについていった日の、

滞在中の朝食時、父から言われました。

「買い付けをやってみろ」。

聞くと、アシスタントとして手伝っている業務は、バイヤーの仕事がわかった方がやりやすいのだから、見ているのではなくやってみるのが一番だというのです。

その出張の滞在は、後2日しかありません。その日中に商品をきめ、明日には報告するため、その日、初の買付業務が突如発生しました。
この日、買い付けたことからバイヤーとしてスタートする流れになったと思います。

この初めての買い付けにて、素敵さに惹かれて「シェル素材のアクセサリー」を買い付けることに決定。

いろんなメーカーさんに聞いて周り、発注するミニマムのロットが一番小さなところを見つけ、カタコトの英語で気に入ったデザインのネックレスを10種類ほどの選定を終え、

「一つ10ダースから発注できる」ときき、1つのネックレスを10ダース発注する前提でサンプル発注を依頼。

20代で英語もカタコトの小娘を相手にしてくれたメーカーさんをありがたく思い、帰国してからサンプルを正式にオーダーします。

サンプルが届いて、実際現地で見たものと同じものがちゃんと届き、一つ一つの価格やロットごとの合計金額などを自分でも確認し、会場で話したことと齟齬がないことを確認し、一安心。カタコトでのやり取りでちゃんと意思の疎通が取れていたことにホッとしました。

発注するにしても当時自分が使った最高額である25万を目安にすることにしました。

25万とは、私がそれまでに使った最高額。ヨーロッパの旅行に母と行くのに使ったことのある額でした。

万が一売れなくても、自分のお給料から責任持って払える額にしておこう、と思ってのこと。

このサンプルを持って日本の小売店において貰えるにはどうしたら良いかを調べながら、この10ダースの本ロットを発注し、支払ってから45日後に出荷する、ということで、支払うことに。

ロットが出荷される際に、fedexか、EMSか?と問われ、郵送費が安いEMSを選択。

届く日を心待ちにしながら、営業というものをしてみようと考える。

本ロットが届くのは、2週間後くらいの6月末頃だという。

届くまで、生まれて初めての営業をしてみる。

小売店にサンプルを持っていき、店頭で「お店においてもらうにはどうしたら良いか」を聞いたり、電話で突然営業の電話してみたりする。

なかなか買ってもらえない事実を噛み締めて、はっきりと言ってもらったことは”この時期は夏物の消化をしている時期だから、仕入れるとしたら秋物だよ。”ということでした。

発覚した、「7月頃に小売店が欲しがる商品は、秋冬のアイテムである」という事実。

ところが、私が発注したのは、貝やウッドなどのフィリピンで素敵に見えた一般的には夏の素材のネックレスばかり。

4月の買い付けでは、夏用の商品ではなく、秋冬の商材を仕入れてくるべきだったこということに、営業して初めて気付きます。

営業しても誰からも買ってもらず、秋冬物がない私は売るものもなく、トボトボと帰宅。

しかし、目前には真夏がやってきて、「今すぐに身につけたいものを、買いたい人はいるはずだ」と思ってもいる。

当時ネットでなんでも買い物をしていた私は、

「小売店に買ってもらうことが無理であれば、夏に一般の人に直接売る手段はないか」と調べることにしました。

路上での販売には催事イベント、蚤の市的なイベントがあることを知り、探しながら今すぐに買ってもらえる方法を探し続けました。

そうこうしているうちに、

どこにも売る方法を見つけられないまま、商品が届き、早速裁き先がない商品の荷解きをしました。

初夏の日本では、ゴールデンウィークに浮かれていて、私はシェルやウッドのネックレスを開梱しながら、順調に進んでいると思っていた買い付けが、失敗であることを実感しました。

「どんな方法でも良いから、今すぐに買ってもらえる方法はないんだろうか」。

たくさん仕入れたアクセサリーを、当時流行していたヤフオクに出品してみようと思い立ちます。

ヤフオクなら、当時大学生時代に、実家の倉庫整理で不用品を販売して処分し、6万円くらい手にいれて韓国旅行に行ったことがあり、身近でした。

そこで、かっこいい「お店」の姿をしていなくても、買ってくれる人がいるのかもしれないと思い、少しやさぐれた気分で、ひとまず、出品。
値付けが正しいのか?買ってくれる人はいるのか?

展開する季節だけはあっているはずだ。と。

「私だったら今欲しい商品であることだけは自信がある」と思う気持ちだけを頼りに、有り余る在庫があるので、なんでも挑戦してみようと、ひとまず1つ目を売ってみました。
1ドル以下(50セント)くらいだったコスチュームジュエリーを3000円以上で販売する。今度はどんなことが見えてくるのかしら。

大学生時代にさんざん不用品を売ったことがあるヤフオクで、使い勝手がわかっていたこともあり、値付けに自信があまりない状態とはいえ、とにかく出品。

自分がいくらならこの商品を買うのかしら?と考えた時、3500円くらいの値札がついているなら自然かな、と思い、自分でもそのくらいなら買うと思う、とイメージ。

折りたたみ式の携帯で写真を撮り、出品の登録をして見ると、数時間後あっさりと最低入札金額の500円の値段がつきました。

落札間際には3500円を即決価格、と設定して始めたオークションで、見事に3500円で達成。

思惑通りの価格で売れたけど、まぐれなんじゃないかな、と思いながら同じ商品の在庫をもう一度出品。

売れてはまた同じ商品を出品し、入金を確認して出荷。

最初はまぐれと思えたのに、何回も同じシェルのネックレスが、3500円で売れていきます。

「自分の値付けの感覚は、合っていたんだ。」

「私が素敵で欲しいと思うものは、他の人も同じように思ってくれている」。

買ってくる時期を間違えた。日本で展開するのは何月で、そのためにはどんな素材のものを仕入れてくればよかったのかなど反省しながら、すっかり自信なしモードに陥っていたけど、クヨクヨは吹っ飛び、意外と可能性を感じ始めていました。とはいえ、10種類買ったネックレスのうち、残りの9デザイン分は、丸ごと残っている。この残っているものも同じようにオークションで売っても良いけれど、残す9デザインのネックレスを売る方法は他にないのかを考えないといけない。

時代はヤフオク全盛期でありながら「月10万稼ぐのは憧れ」とされた時代の最中。

当時は、ネットショップの創世記で、自分自身もオークションで落札などしたことがあっても、「ネットショップ」というもので買い物をしたこと自体が、「冒険」的な体験だった時代です。

そこで、「ネットショップで買ってみるという体験自体が面白かったから、それを提供する側になってみたらどうか」と考えます。

ネットショップなんて怪しい、と言われ、お店で買い物をすること時代「怪しいかもしれない」とドキドキしたような状況の中、ネットショップというものを作ってみることに。

ネットショップは、個人の石鹸のお店などで買い物をした経験がって、それが楽しかったことから、

自分もネットショップをやってみたらどうか、と思いたち、すぐに、ネットショップを立ち上げる方法を調べました。

ひとまずヤフオクを続けながら無料サービスのホームページを開設し、ショッピングカートなどを設置してみよう。

ドメインてなんだろう?

お買い物の決済手段として、カード決定がない時代に、代引きと銀行振込、郵便振替などの選択肢があることを知り、手作り感満載の「ネットショップを開設してみました。

写真も、携帯のカメラで撮影し、モデル写真も自撮り。

どのカットの写真が必要か?など考えながら手探りでしかないネットショップが始まりました。

それが、Daphne(ダフネ)というこぢんまりとしたネットショップのスタートです。

2002年5月

ネットショップなんて怪しい!と言われた時代に、自前のネットショップを開設してみると、今度は集客が全くないことを知り、また愕然。

機械音痴、パソコン音痴の私が、カメラで画像を取り込んで、タグ打ちをしてページのレイアウトを整え、

カートなどを設置してネットショップとして機能するようになたものの、全く誰も見にこないことを知ったのです。

カウンターを設置し、来店客数が分かるようになっていましたが、自分がアクセスした回数分しかカウンターが回りません。切ない。

今度は「アクセスを増やすには」を調べました。

どうやら100人来て、1人買う割合らしいことを知り、ひとまず、商品数を増やしたり写真をこだわる前に「アクセスを増やすこと」が必要なことを知ります。

そのためにとった手段は、大学生の頃に運営したコスメサイトでコスメサイトランキングに登録して上位に乗ることで、知らない人たちが見に来てくれた経験でした。

とにかく、人目につくところに掲載されたりリンクされたりするにはどうしたら良いだろう、と考えました。

その作業で「アクセサリーサイト検索サイト」なる物があることを知り、ハンドメイド作家さんなどが自分の作品を売るためのネットショップを開設し、そういうネットショップが集客するための検索サイトがああることを知ります。そういうアクセサリーのネットショップ検索サイトに肩っぱなしから登録を開始。

どんどん登録しては、ランキング上位になっていくことを夢見ていると、検索サイト内に「バナー広告」があることに気づきました。

「バナー広告」。

なにそれ?

調べると、一定の期間内に小さなバナーで3000円くらいから広告が出せるようです。

その頃には、ヤフオクで販売してきたお金が溜まっていたので、バナー広告を出してみようと、挑戦。

3000円程度の広告をいろんなところに期間をずらして貼ってみます。

バナーの大きさや、貼られる位置によって集客が違うことを体験しながら、自分のネットショップにひたすら集客をし、奇跡的にお買い物をしてもらえるようになっていきました。

そうやって、自前のサイトで注文が来るようになると、値段の付けか違っていたかのために使っていてオークションは一旦終わりにしネットショップに集中ししてみることにします。

ただ、買ってきたネックレスは10デザインしかありません。

10種類のネックレスしかないのに、ネットショップを開くって、どう考えても品数少なぎるよな。

そこで、10デザインのネックレスが売れやすくなるために、「引き立て役」になる商品が必要だと考えます。

しかも、まだアクセスがほとんどない今の状態で、1デザインあたり10ダース、120本もの発注しないで済む、「委託」という商品を預かる形式をうまく活用できないかしら、と在庫が多くなりすぎない方法を考えてみた。

ネットショップの検索サイトには、自分でハンドメイドで作ったアクセサリーを買って欲しい作家さんはたくさんいて、みなさん、売りたい気持ちのある人ばかり。

そこで、作家さんに商品を預らせてもらい、その商品の販売をすることにしました。

いろんなテイストのアクセサリーを集めて、最も在庫の深い3000-5000円のフィリピンでの買い付けのアクセサリーが売れるように、10000円前後の商品を取りそえろます。

こうして、商品ラインナップを増やした頃、今度は

アクセスをさらに集める為にも、自前のサイトでバナー広告で集めるよりも、大手のモールに出店した方が、「買い物する気のある人」がおり、大手のモール内にいる人に探し出してもらえるのではないかと思い始めました。楽天出店の道へgo。毎月の家賃と売り上げを調べると、意外とやれそうです。

2002年8月

思い立ったらすぐに楽天に出店。

少しラインナップを増やしてみよう、と試行錯誤しながら商品を増やし、どうせなら大きいモール的なところに、と楽天に出店。

引き続き、小さいアクセサリーのネットショップの検索エンジンへのバナー広告も駆使し、集客を図りました。

楽天内の広告は、それよりもうんと高かったのですが、次第にお金が貯まり始め、3000円のバナー広告は大きめの広告v12000円くらいの広告にを出せるようになり、楽天内の広告などに挑戦し、どんどんアクセスを増やしました。

広告をだしても、それで集客した人がアクセサリーに興味があるとはいえ、私の買い付けのアクセサリーのテイストが好きかどうかはまた違う話でした。

また、広告を頼りに一度私の店に来てくれたとしても、新商品の入荷はそれほど頻繁に行えません。

なかなか更新しないお店を定期的にお客さんが見に来てくれるにはどうしたら良いんだろう。

新商品を入荷しないけど、お客さんが見に来たくなるお店ってどんなお店だろう。

そう考えた結果、また「コスメサイト」時代に毎日つかった化粧品を日記に書いていたことを思い出し、日記は楽しかったこと自体を思い出します。

また、その日記を書くことで、私自身の考え方に近い人が増え、オフ会をしてみると、意気投合しやすかったことを思い出しました。

「日記は考え方や、好きな物を知ってもらうコンテンツ」「文章を書くのは楽しい」と思い出しました。

そこで、毎日ではなくても「あの店、そういえばどうなってるかな」と思ってもらえる仕掛けとして、「店のオーナーブログ」をやってみようと挑戦してみました。

そんな暮らしが、そのまま6年続きました。

2008年8月 29歳

ひたすら地道に広告を出し、一度でも来てくださったお客様に、商品の仕入れ以外でも、「見にきたくなる理由」を考えて日記を更新し続け、6年経ちました。

楽天月商250万に。楽天出店6年目にして、

売り上げ最高値を更新です。

2008年9月4日

そうこうしているうちに、アクセサリーの売り上げは伸び、新たな仕入れをするなどして、買い付けが回るようになりました。

より、リアルな接客がしてみたい、と百貨店催事などを年一回で行うなど、イベント性を持たせて楽しみながら仕事をしていたある日、父が脳梗塞で倒れました。

当時は、父の仕事をの実務を学ぶ、バイヤーの仕事というものがどんなものか、買い付けから輸入、納品、販売して、お金にかわり、そのお金で新たな仕入れ位をするということを知るため、父は私にフィリピンで「何か買い付けをし、お金に変えて体験してこい」と言ったのですが、

当時は、父がメインで輸入を行う、花器、花材の輸入業務などをアシスタントして行う傍ら、空いた時間でこのアクセサリーの輸入と販売をしていました。

私のアクセサリーの業務が、一つの仕事として大きく成長していく姿を見ていた父は、

「俺の仕事を引き継いで行くのではなく、そのアクセサリーの仕事で自分で会社を作りなさい」というようになり、「30歳になったら会社を作ろう」と言われていました。

つまり、来月が予定。

私はなんとなくこのまま会社を作ることに迷いながら、歯切れの悪い返事をしたままだったけど、

父は私の会社を作る準備をしてくれていました。

脳梗塞の父は、一命を取り留めると、私は病院で面会中「これからどうするのか、今決めてくれ」と言われます。

しかし、この時私は、周りにいる同年代の友人が会社員として働いている姿を見て、会社員というものをやったことがないことがコンプレックスでもありました。

会社員というものをやったことがないまま、このまま一人で仕事をしてもよいのだろうか。

会社に勤めてみるのは、若い時だけではないか。

そんな気持ちがどうしても無視できません。

でも、来月の誕生日に、会社を始める。

本当にそれでいいんだろうか。

そんな迷いの中、さらに事件が起こります。

2008年9月中旬 30歳まであと少し

「リーマンショック直撃」。

突然ネットショップの売り上げがなくなったのです。

売り上げ0の日々が始りました。

目先の給料を確保すべく派遣社員に登録し、父の入院とリーマンショックから人生を考え直すことになりました。

一旦出した答えば、「父の会社を辞めて、会社員になること」。

元々、父は会社を継いでほしいなどとは思っておらず、

俺は俺の規模で、自分の思うように、家族だけが食べていかれればそれがいい、といっており、

私にも、「引き継ぐのではなく、自分で生み出せば、何があっても頑張れるから」と言われていたことで、会社を辞めることが一番スッキリと納得がいく選択肢でした。

病床にいる父に、会社をひとまず辞めて、会社員になることを宣言し、私は転職活動へ。

会社員をしながら、そこまで育てたアクセサリーのお店の仕事をスタートするのも良いかなと、派遣社員で2足の草鞋をするべく、派遣会社に登録をしました。

そして、家族経営だったため会社の事業を個人のサイズに縮小します。

「俺は俺のサイズで家族が食べていければいい。あなたはあなたで、やりたいことを。」と。

2008年9月下旬

30歳の誕生日に法人にする予定を実現するか迷っていたけど、こうも売れないと、白紙にするしかなくなりました。

一人で働く孤独と、会社員をやってみる事ができるかもしれないわくわく。

リーマンショックの景気が死んだ状態の中、派遣会社に登録をして、派遣社員でも取ってくれる会社を探し、かといって瀕死のネットショップも整えながら、この先どうやってどんな仕事をしていきたいのかを模索し始めました。

リーマンショックで転職環境も派遣切りが問題になっていた暗い最悪の環境で、取ってくれるならひとまずどこでもいい、という状況ですらあり、会社員になることも、かといって全く売れなくなったアクセサリーの仕事を続けることもままならない。

選択肢そのものが無くなったかのように思え、どうにかして日々を食い繋ぐために転職しなければいけなくなった自分の現状が、ただ惨めに思えた。

誕生日が来た。

私はただ、なぜだか自分が情けなかった。泣けた。

2009年2-8月 31歳

転職活動をしながら派遣社員になりました。

目前の日銭を稼ぐ必要に迫られ、不動産事務、店頭スタッフなどの派遣社員として採ってもらいました。

しかし、合わない仕事の辛さを実感。

この時の私は、本当に辛かった。

そんな辛い不動産事務の派遣勤務の最中、リクルートの派遣の案内が来た。

「絶対、会ってみた方がいい。」

そう言われて紹介されたのは、テレビ通販の会社でした。

当時の私はネット通販の世界で生きてきたし、テレビ通販なんていかがわしいし、ババくさいと思っていた。

でも、目の前に垂れてきた蜘蛛の糸にでも縋りたい私は、ひとまず会ってもらえるだけで嬉しかった。

会社員時代

2009年8月 31歳

自分の大事に育ててきたネットショップを紙にカラー印刷し、面接へ。

外資系のテレビ通販の会社の面接官に見て貰えば、もう少し自分がやってきたことが伝わるかもしれない。

そう思って面接に行くと、そこにいたのは、白髪の、大柄の、エネルギッシュなおじいさん。

面接の依頼をする際に、ネットショップのURLを掲載していたそのshopを見ていてくださった。

おじいちゃん面接官は、「僕、あなたの感性も、買い付けも好き。なかなかいい感性してるね」。

その方から、面接中にどうやってネットショップをはじめ、運営してきたのかをひたすら聞かれ、そのまま答えると、ずっと笑って聞いてくれたのです。

「それで、どうやって広告を出したの?写真はどうしたの?キャッチコピーとかどうやって考えたの。」

次々と聞いてくださる質問が嬉しくて、今まで考えてやってきたことを答えていったら、言われたことは「なんでもやってみるんだね」。

そのやりとりがおもしろかったらしく、無事その面接で採用が決定。

通販会社に転職することになりました。ついに念願の会社員人生スタートです。ネットショップで作家者を中心に扱っていたことから、工芸品、手作りの作家者などクラフト感あふれる催事フロアのようなカテゴリーを担当することに。

2014年9月 35歳

5年ほど作家ものやニッチ商材の売り場にいて、売り場作りが軌道に乗り、予算を毎年達成できるようになった頃。未来は明るいなと思い始めたのも束の間、売り上げどん底のハイジュエリー担当に異動の辞令。そこで凄惨なパワハラに遭遇。上司も先輩も全員パワハラで、同じチームの人が次々と会社に来なくなって辞めていき、私も適応障害を発症。
会社だけに人生を預けてはいけないと実感。辞めたい時に辞められる準備をしてこなかったことを後悔。

適応障害になり、心身ともにくたくたになってしまってからでは、転職の活動をする気力などないということを実感。

そしてなんといっても周りの人間関係はテレビドラマのようにドロドロとして凄まじかった・・・。

2015年12月 36歳

ジュエリーカテゴリーにいても人生の時間の無駄使いで馬鹿馬鹿しいかもしれない。

会社を休んで転職活動をスタート。私にだけここまで負荷がかかるのはおかしい。疲れたから会社は行かない。など、不良な会社員になり、転職活動と適当に休むを繰り返しながら、それでもやることだけはやって適当に会社員は継続。

見るに見かねて、先輩がジュエリーカテゴリーにいると会社辞めちゃいそうだからと、人事に掛け合ってくれて助け出してくれることになりました。

今度は日用品担当に異動です。

ジュエリーから脱出できたものの、今度は日用品の勉強をしなければならないという状況がまたストレスだった。

ここから、洗濯洗剤についてや、カビ取り洗剤の勉強が始まり、調理器具を使わないと自分が販売する調理器具のことがわからないので仕方なく鍋などを使い、保存容器を使うという、自炊生活をスタート。

家の掃除や炊事をすることで、家への愛着が湧き、マイホームを購入。

賃貸の家ではなく、自分の家の相違なら、なお一層やる気が出た。

仕事をがんばるほど、家のことが上手くなる。勉強はしんどいけど、それはおいしいなと思う暮らし。

会社員時代の生き方を再考し始める

2020年3月 41歳

家のことはできるようになったものの、引き続きこのチームにも嫌な上司と嫌な女の同僚に嫌気。

仕事は慣れたけど、ステイホーム期に突入。

引退後、老後に何をしたいのか?

ステイホームで時間が生まれ、ゆっくり自分の人生を考え直すきっかけに。

2021年4月 42歳

ファッション担当にまた異動。異動3回目の今度は、クロコダイルやチンチラなどの高級な素材についての知識を勉強しなければならなくなりました。他、靴や下着などもある。

異動の際昇給し、祝福されたものの、この頃になると膨大な知識が溜まっていました。でも、更なる環境の変化とさらに勉強しなければならないことに精神的に激しく疲弊・消耗し、また適応障害気味に。

3回目の異動で、もういい加減、会社に嫌気が刺し、自分が可哀想に。

まとめ

この時点でこれまで買ってきた商材は・・・

  • コスチュームジュエリー、ジュエリー(真珠)7年
  • 特殊詳細(伝統的工芸品、作家ものなど)5年
  • 日用品 5年
  • ファッション 3年~

2024年9月 45歳

通販の会社に勤務中。